後期を迎えるにあたって(始業式挨拶)
みなさん、おはようございます。
2日間の秋休みはいかがだったでしょうか。みなさん、しっかり前期のふりかえりはできましたか。今朝、お互い、元気に挨拶ができましたか。本日は、後期のスタートです。今日は、終業式と違って、このようにみなさんの顔を見ながらお話ができること、とてもうれしく思っています。
実は、終業式が終わった後、何人かの先生方から、「校長先生のお話が終わった後、拍手が出たんですよ」という言葉をいただきました。拍手っていいですね。自分の言葉や思いが伝わったんだな、お話をしてよかったな、と本当にうれしくなります。「よかったよ」ということを、言葉や拍手で素直に相手に伝えることができることは、とても素敵なことだと思います。
さて、先日の終業式の挨拶での最後の言葉を覚えていますか。
「一度きりの人生です。今を十分に楽しみましょう。」-これが締めの言葉でした。
そこで今日は、「今を十分に楽しむ」ということを少し哲学してみましょうか。
フランスの実存主義哲学者アルベール・カミュが書いた「シーシュポスの神話」という短いエッセイがあります。
シーシュポスは、神々の怒りを買い、大きな岩を山頂にまで運び上げるという罰を受けました。しかし、ようやく運び上げた途端、この大きな岩は山を転がり落ちて、また一からやり直しとなり、何度やっても同じことが繰り返されます。カミュは、このギリシア神話をもとに、人が生きるということは、結局、この神話のシーシュポスと同じではないかと説いています。つまり、人は生きている間に色々なことをやったとしても、結局、最後は死んで全てがなくなってしまう。人間は、それを知ったうえでも、生き続けていかなければならない存在であるということです。
では、そのような中で、私たちはどう生きていけばいいのでしょうか。これは、過去から現在に至るまで全ての人間が直面する大きな課題と言えます。
私の場合は、この課題を探究した結果出てきた言葉が「今を十分に楽しむ」ということでした。例えば、数学の問題を解く場合、正解か不正解かの結果ではなく、まさにこの問題と格闘している経過そのものに意味があるんだと考え、格闘していること自体を楽しもうということです。そう考えると、どんな結果になろうが、私にとって、無駄なことや意味のないことなど一つもないことになり、一瞬一瞬の積み重ねが生きることそのものなんだと思えるようになりました。
先日、三重県で男子高校生が同じ学校の女子高校生から「自分を殺してほしい」と頼まれて殺害したという、とても痛ましい事件がありました。新聞等によると、この女子高校生が「自分は生きる価値がない」と話をしていたとの情報もあるようです。この事件、本当にいたたまれない気持ちになります。私は、「生きる価値がない人間なんて一人もいない」と強く思います。ただ、誰でも、必ず、いつかどこかで、生きることにむなしさを感じて悩むことがあると思います。私自身もそうでした。その意味では、この女子高校生もごく普通の高校生だったのではないかと思います。
ふと、生きることにむなしさを感じた時。これは、自分だけの問題ではなく、全ての人間にとっての大きな問題なんだと考えてみてください。「自分だけではないんだ。みんなそうなんだ。」と思うと、少し気持ちが楽になって、考えることに余裕が出てきます。余裕が出てきたら、人に相談しようという気にもなるし、人に相談しているうちにむなしさが少しずつ解消されることも多いと思います。
さあ、今日から後期が始まります。この後期の学校生活でも、きっと色々なことがあると思います。そんなたくさんの経験を通して、みんな、一回りも二回りも大きくなっていくことと思います。ただ、いつも物事が順調に進むとは限りません。そんなときには、今日のお話を思い出していただけるといいなと思います。
もしかしたら、少し難しい話だったかもしれませんが、これだけは覚えておいてください。「毎日が楽しくないな。苦しいな。」と思ったら、とにかく周りの大人に、そのことを話してください。私自身は大歓迎です。私はIBセンターにいますので、ドアが開いている時は、基本的に相談オーケーです。よかったらふらっとお話をしに来てください。
少し長い話になってしまいましたが、最後まで真剣に聞いてくれてありがとうございました。私の今の心境は「わたし、アナタ、min-na そのすがたがうれしい」という学校教育目標、そのものです。
最後に一言、みなさん、一度きりの人生です。今を十分に楽しみましょう。