池上先生、御無沙汰しています。お元気でしたでしょうか。

開成中等教育学校へ異動して3回目の夏が足早に過ぎていきました。夏休みが明け、今日から授業がスタートしたところです。今年の夏は気温が高く、最高気温が30℃を超える日がまだ続いていますが、暑さに負けていませんか。アクティブな池上先生は、この夏もどこかの山を登っていることと思います。

もう5年半も前の話ですが、校長の引継で「還暦を記念して富士山に登りたい。一緒についてきてくれ。」という話を聞いたときは驚きましたが、生徒一人一人が夢を描いたハンカチ(夢ハンカチ)を富士山頂にもっていくということを実現したいとの希望を聞き、私にもその役割をやらせてほしいと言ったことがまるで昨日のことのように思い出されます。

その富士登山は山梨県側の吉田ルートを5合目から登り始めましたね。7合目の山小屋で宿泊し、次の日、山の上で生徒が書いた夢ハンカチを広げることができたのはとても感動したのを覚えています。

次の年、今度は海から富士山に登りたいと聞いたときはまたまた驚きましたが、頑張ってお付き合いをさせていただきました。海から富士山頂を目指す「富士登山ルート3776」というコースがあることを教えていただき、ルートの起点となっている静岡県富士市にある田子の浦みなと公園をスタートしたのは午後6時だったと思います。3キロほど歩いて、富士市内のホテルで1泊。翌日、ルートの標識を頼りに進み、森林限界が過ぎたところで宝永火口が大きな口を開けて迫ってきたのには感動しました。その先、新7合目の山小屋に宿泊。12時前に出ないと山頂の渋滞で御来光に間に合わないとの山小屋の御主人のアドバイスを受け、そんなことはないだろうと高をくくっていましたが、まさか「こんなところから渋滞か」と驚いた記憶があります。

そのときにやっていた「富士山頂往復マラニック」は、この田子の浦から富士山頂まで行き、また戻ってくるという全長112キロを制限時間24時間というものですが、あのときもスタートした選手たちに声をかけ、2日目に歩いているとき、駆け下りてくる選手と出くわしたのを覚えています。

何と、今夏、そのマラニックに出る機会をいただきました。さみだれ式で14:40にスタート。15キロ地点にある富士山本宮浅間大社までは灼熱のロードでした。この日の富士市の最高気温は33℃でしたが、アスファルトの照り返しでコース上の気温は35℃を超えていました。まさにうだるような暑さでした。

浅間大社を過ぎると、登りが始まりました。暗くなる前に、頭にヘッドライトを装着し、33キロ地点にある唯一の給水所に20:20に到着し、その後、50キロ地点である標高2400mの富士宮5合目に到着したのは真夜中の12時でした。ここまでTシャツと短パンでしたが、山頂は6℃との情報があり、背負っていたザックから防寒具を取り出し着込みました。ここから山頂まで6キロ、4時間で登る計画でしたが、9合目から御来光を見る登山者による渋滞につかまり、登り切ったのは4時半。急いで本当の山頂である剣ヶ峰まで行きましたが、ここでも行列。「日本最高峰富士山剣ヶ峰3776m」の石碑をバックに記念撮影をする人たちの行列でした。

私は石碑のみ写真を撮り、急いで下山。下りてきた5合目で防寒具とライトをザックにしまい、時計を見ると制限時間まで7時間。残りはフルマラソンを超える50キロ。ところで、この富士宮5合目からはバスがあり、周りには、少なくない選手がバスを待っている状態でした。バスに乗った時点でリタイアになってしまいます。ひと月前、サロマで悔しい経験をした私は、制限時間に間に合わなくてもゴール地点まで行くと決めていました。残り20キロ地点を通過したのが11時で、残り3時間半。ここから昨日と同じように灼熱のロードとなっていました。行きにお参りした浅間大社を過ぎ、ほぼ平坦となったロードを、ゴールを目指して走りましたが、暑さに体が悲鳴を上げ、そして休憩時間が長くなり、残り時間がだんだんと無くなっていきました。ゴール近く、海が見えて来たとき、ふと左を向くと、はるかかなたに富士山の山頂が見えました。「今朝、あそこにいたんだな」と感慨にふける自分がいました。走りながら、蓄積した疲労を上回る「富士山の巨大さ、自然の素晴らしさ・厳しさ、人間の計り知れないたくましさ・諦めない強さ」を感じていました。

そんなわけで、今夏、こんな冒険をしてきました。御報告がてら、また、一緒に、どこかの山を登りましょう。また、連絡します。

 

令和5年(2023年)8月18日

  校 長  宮 田 佳 幸