先日、本屋へ行きましたら、池井戸潤さんの「俺たちの箱根駅伝」という本が山積みになっており、買いたい衝動に駆られましたが、今読んでいる本が後回しになってしまうため、ぐっとこらえて本屋を後にしました。

  毎年、12日と3日に行われる箱根駅伝ですが、元祖山の神である当時順天堂大学の今井正人さんが山登りの5区を走っていたころから見ていますので、もうかれこれ20年近く見ているでしょうか。

これまで、結構、箱根駅伝に関する本も読んできました。三浦しをんさんの「風が強く吹いている」、これは映画化されましたので御覧になった方も多いのではないでしょうか。「冬の喝采」を書いた黒木亨さんは箱根駅伝で瀬古俊彦さんからタスキを渡されたその人です。安東能明さんの「強奪 箱根駅伝」は実際の大学名で書かれているミステリー小説で、テレビ初の生中継に挑んだ日本テレビのことを書いた原島由美子さんの「『箱根駅伝』不可能に挑んだ男たち」などなど。そんな中、泉麻人さんの「箱根駅伝を歩く」は往路の1区から5区までを走るのではなく歩いたコラムになっています。

その「箱根駅伝を歩く」に対して、今回は「全校強歩を走る」として話を進めたいと思います。かつて、開成高校時代、当時の真駒内中央公園(現エドウィン・ダン記念公園)から国道453号線を通って支笏湖のポロピナイまでの33キロを全校生徒が歩きました。開成高校に赴任した年に、ベテランの先生とともに先導をすることになり、校舎内で練習したのを覚えています。時速にして8キロ、これを歩くのですから大変です。朝、真駒内中央公園に集合し、845分に公園を出発。17キロ地点にある山水橋、ここは恵庭市街に行く道との分岐に当たりますが、ここまでしか先導の役割を果たせず、ここからの約2キロの坂で後退し、先導から遅れること20分、4時間40分ほどでゴールしたのを覚えています。

さて、「全校強歩を走る」です。快晴の54日(土)、真駒内中央公園ではなく、地下鉄真駒内駅からスタート。石山陸橋の手前で本来のコースに合流し、右側の歩道を芸術の森まで走ります。その先の滝野方面との分岐を右に、さらに空沼岳へと続く分岐を左に進みます。結構な長い坂を上り、約10キロ地点にある真駒内ゴルフ場入口に到着。ここまで約1時間。早朝のため、行きかう車もあまりなく、まわりの森の中からは鳥のさえずりが聞こえてきます。

上り下りを繰り返し、千歳市の看板を通りすぎ、歩道もアンダーパスをくぐって右側から左側に移り、2時間弱で17キロ地点の山水橋に到着。当時先導から離された長い上り坂を登り切ると、正面に空沼岳が見えました。その後、ほぼ平坦な道路沿いの歩道を進み、約20キロ地点から再び上りが始まりますが、覆道を通って登り切ると22キロ地点の恵庭峠。ここを通過すると、正面に恵庭岳が見えてきます。峠を過ぎると、一気に下り、漁川を渡り、札幌50峰に数えられている漁岳の登山口を通り過ぎ、26キロ地点のオコタンペ湖への分岐点に到着。この先は7キロ全て下りです。この分岐点を注ぎると、台風の爪痕がまだ残る地点を通過します。2004年、猛烈な台風18号により、支笏湖周辺では森林約7000haが根こそぎなぎ倒されました。未だに痛々しい爪痕を残しています。この時、札幌市立の園・学校は全て臨時休校になりました。

残り2キロほどになると、やっと支笏湖が見えてきます。支笏湖を望む駐車場には車がいっぱいですが、人は誰もいません。そう、ここの駐車場はイッチャンコッペ山への登山者の駐車場にもなっています。そして、ヘアピンカーブを曲がり、イッチャンコッペの登山口を過ぎると、恵庭岳の登山口が現れます。結構な車が止まっていましたので、恵庭岳に登られている方も多かったようです。

そのあと、丸駒温泉への分岐を左に折れ、支笏湖に湖岸に到着。ここがポロピナイ、全校強歩のゴール地点です。当時、帰りはバスで真駒内駅までピストン輸送があり、1号車のバスの乗るのが生徒にとっての誇りでした。女子バスケットボール部の生徒も1号車に乗って帰って行った記憶があります。

時間は約3時間30分で到着。先導をしたときよりも1時間早く着きましたが、当時、全て歩いていたことを考えると、当時のスピードは驚異的です。そういえば、先導の後ろについていた生徒たちはみんな小走りで走っていました。

さて、一人全校強歩をした私はポロピナイに到着したあと、そこからの交通機関がなく、支笏湖温泉街までさらに7キロを走ったり歩いたりする羽目になり、何とか温泉街に到着し、そこからバスに乗ってJR千歳駅へ。そこから列車に乗っで帰りました。下調べが大事であることを認識した一人全校強歩でした。

 

令和6年(2024年)5月13

  校 長  宮 田 佳 幸