遥かで近いアトランタ

引率教員  菅 原 善 之

 はじめに

 5回目の訪問は初日が山だった。千歳から成田に到着して間もなく、まだ通路を移動中に着信があることに気づいた。折り返すと旅行業者の担当者が出て、成田発ワシントンDC行きのUA804便がキャンセルになったことを告げられた。とりあえずそのまま南ウィング4階のUAのカウンターに向かうも、そこには女性職員が一人いるだけで、12時半にならないとカウンター業務は始まらないと言う。そこから一気に時間が過ぎて行った。

担当者が東京にあるUAのオフィスに直接かけあうことで一旦は待機することになった。事態がはっきりしないままでは生徒に自由な時間を与えることもできず、ただただ次の連絡を待つしかなかった。担当者からの途中の連絡では、正月明け早々の込み入った時期でもあり、振り分けの結果、最悪の場合には何便かに分かれての渡米もあり得るとのことだった。だが、それだけは避けなければならなかった。そうなった場合には翌日の出発を選択するつもりでいた。

アトランタのロビン先生にUA804便のキャンセルを伝え、どうなるかが判り次第、連絡を入れることを約した。

しばらくして携帯が鳴った。待ちに待った朗報だった。全員DELTA便に乗れると言う。出発時間は15時10分。経由地はNY。アトランタには予定より1時間ほどの遅れで着くと言う。すぐさま北ウィングのDELTAのカウンターに向かう。事態がはっきりしたので札幌とアトランタに連絡。カウンターで事情を話すも、調べてみるとUA側の手続きが完了していないため、こちらで搭乗手続きができないとのことだった。生徒を青塚先生に預け、全員のチケットを持って成田先生と南ウィングに再び向かった。だが、キャンセルの手続きと荷物の手配にここでもかなり時間をとられてしまった。

当 初 予 定

変 更 後

6:55

集合

 

 

7:50

新千歳発

 

 

9:25

成田着

9:52

成田着

 

自由見学

14:30

南ウィング集合

16:40

成田発

15:10

成田発

14:46

D.C.着

14:05

NY着

16:45

D.C.発

16:45

NY発

18:42

アトランタ着

19:35

アトランタ着

ようやく北ウィングに戻った時には皆疲れた様子で椅子に座っていたが、ゆっくりしている余裕はほとんどなかった。生徒にはパンなどを買って待合場所の椅子の上で慌ただしく食べるだけの時間しか与えられなかった。

DELTAカウンターで搭乗手続きを済ませ、セキュリティーを無事に通過すると、搭乗予定の客を探すスタッフが立っていた。大急ぎでゲートへ向かい乗り込んだ。席はバラバラ。そんなことはどうでもよかった。皆同じ飛行機に乗れたのだ。それも訪問日程にほとんど影響が出ない形で。担当者の強い働きかけがあり、運も味方したに違いない。兎にも角にも成田を発てたのだった。

 

アトランタ着

 NYケネディ国際空港には予定よりも早めに着いた。入国審査自体もスムーズに完了した。スーツケースを取り、乗継手続きへと向かう。すぐにスーツケースにできた大きな凹みに気づいたが、そのまま先を急いだ。ある生徒のスーツケースにはひび割れが入っていたことを後に知らされた。経由のために再度荷物を預けた際に目にした職員の仕事ぶりに、それも無理のないことだと知った。彼らは預かった荷物を文字通りボンボン放り投げていたからだ。

ようやくのことアトランタの空港に辿り着いた。到着ロビーまでの移動も長かった。荷物を受け取ってから出迎えの皆さんにお会いすると思っていたら、いきなり大きな歓声があちらこちらから上がり、抱き合う姿が目に入ってきた。昨年7月に本校を訪れた生徒たちの家族が総出で出迎えてくれたのだ。記念写真に収まり、それぞれのステイ先へと向かった。

 

HIES訪問 & *フィールド・トリップ

 訪問初日。高等部の図書館に集合。総校長、副総校長、高等部校長の歓迎の挨拶。日程の確認の後、HIES生は授業。私たちはキャンパスツアーに出発。最初はプリ・スクール、就学前の幼児課程。授業見学に続き、3つの教室に分かれて子供たちと触れ合う和やかなひと時。遠慮がちな接触が次第に自然なやり取りになっていった。

 10時からは改装工事中のチャペルに代わり、講堂で礼拝が行われた。途中、私たちはゲストとして紹介された。パートナーによる名前の紹介に続いて自己紹介を行った。みんな堂々としてよく出来ました。続いてステージ上で校歌の披露。これまた頑張って歌い終えました。

毎週木曜日の10時から礼拝を行っているとのこと。ただし、月の初めの木曜日には、イエスの肉体と血に見立てて、お煎餅みたいなパンの小片と赤ワインを口にする儀式を終わり近くに行うらしく、この日も丸一時間をかけて礼拝が行われた。

 そのままキャンパスツアーが再開され、middle school 、lower schoolと足早に見学している途中で、緑鮮やかなフィールドとトラックを備えたスタジアムに一同目を奪われた。図書館に戻り、ロビンさんからスケ-ジュールが再確認された後、生徒たちはパートナーの受講する授業に向かった。昼食はHIES生と共にカフェテリアでいただき、午後は一緒に授業を受けることになっていた。

一方、私たちは歓迎の昼食会場へ車移動。先のVIP3名に加え、各課程の校長、副校長が参加してくれた。言葉の問題に加え、会ったばかりで会話を楽しむところにまではやはり行き着かない。

木曜日の授業は普段より早めに終わるそうで、学校に戻ると図書館に再集合の後散会した。

 

 訪問2日目。映画でお馴染の黄色いスールバスでダウンタウンへ向かう。見事なほどの青い空。CNN本部ではツアーに参加。ガイドのお姉さんの早口の説明は、寝不足の頭にはきつすぎて、ほぼ素通り状態。オリンピック記念公園を通ってジョージア水族館とワールド・オブ・コカコーラを見学した。

 

 訪問3・4日目。週末はそれぞれホストファミリーと過ごす。ただ、土曜の夜には寝袋を持ってエミリーの家に集まりSlumber Partyが行われた。どのような時間が過ぎたのか興味はあったが、私たちが立ち入らない彼らだけの忘れえぬ夜になったに違いない。アトランタは雨の夜になっていた。

 

 訪問5日目。マーティン・ルーサー・キング牧師の記念館を訪れ、ルームシアターの映像で牧師の偉業と生涯について学ぶ。次にアトランタ歴史センターへバスで移動し、足早に展示品を見て回った。更にすぐ近くの文化財として保存されている邸宅を見学。なんでも事業で成功した一家が住んでいたという。最後には南北戦争以前の農家を訪れた。そこには黒人奴隷が集団で起居していたという狭く小さな小屋も残されていた。

  *詳細については生徒の手になるテーマ別レポートを参照されたい

 

 文化紹介

 訪問最終日。いよいよパートナーが受ける授業の中で文化紹介を行う時が訪れた。冬休み前の放課後4回に渡り、Jenさんにお手伝いいただきながら積み重ねた練習の成果を披露する機会である。12名の訪問団が用意したのは、お手玉、折り紙、書道に茶道、浴衣、風呂敷、季節の行事、和製英語に日本の文字と多様そのものだった。

 12名の文化紹介は1時間目から途切れることなく最終授業にまで配置されていた。中には2度、3度と設定されている発表者もあった。キャシー先生がその日の5つの授業すべてで引き受けてくれていたのは有難かった。発表者の緊張も和らいだろうし、HIES生から質問がたくさん出され、やり取りが弾むよう気を配ってくれていたからだ。

 私たちは教室を行ったり来たりしながら発表を見守った。その心配をよそに、皆堂々として、練習より数段上の発表になっていた。それぞれが準備に余念のなかったことは、彼らが日本から携えて来た物からもはっきり見て取れた。折り紙を例に取ると、カエルなどの生き物や台紙に大きく貼られたミッキーマウスなどが用意されており、それを見るHIES生の目は好奇心で輝いていた。折り鶴を始め、ハート、風船、兜に手裏剣まで、皆喜んでトライしていた。書道では見本を真似て書いた自作の出来栄えを私たちに問い、「いいね」の答えに得意げな表情を見せるのだ。意外なことに、自分の名前をカタカナや平仮名で書いてもらって大喜びする者も少なくなく、互いにシャメを取り合う姿がなんとも可愛らしかった。

 

 別れのアトランタ

 夕刻6時を過ぎて送別会が催された。会場はシンディー家の大邸宅。HIESの調理担当者の手による料理がふんだんに用意されていた。ホストファミリーがほぼ勢揃いしていたのでかなりの数の参加者である。その父母の方たちが皆、親しみを込めて言葉をかけてくれるのだ。やがて手にした料理を味わいながら、あちらこちらで会話が弾んでいった。

 談笑が絶えないうちに、いい時間になっていた。リビングに一同が揃い、ロビンさんが口を開いた。送別会のクライマックスだ。ファミリー毎にホストを務めた感想と別れを惜しむ思いが語られ、感涙に口ごもる感謝の言葉がそれに続いた。どの子も帰りたくないと口にした。専ら参加者の姿を写真に収める役を買って出ていたロビンさんのご主人、トーニーさんは、「三度目の参加になるが、ダディーの涙ぐむ姿を見るのは初めてだ。それも二人も。」とこっそり教えてくれた。最後には引率した私たちもそれぞれに皆さんに感謝の言葉を伝えることができた。

 残すは空港近くのホテルへ送っていただくだけとなった。ロビンさんとキャシー先生のお二人がそれぞれマイクロバス程の中型バスに私たちを乗せてくれることになっていた。バスの様子を見に出ると、いつしか雨がしとしと降り出していた。名残も尽きぬまま、皆さんに見送られての出発となった。

 

空港へ

 ホテルでは結局一睡もできなかった。3時過ぎだったか、それまで止んでいた雨が再び降り始め、稲妻が走り出した。朝食の集合は6時。出発前のロビー集合が6時45分。だが、30分おきに空港へ向かう小型バスの7時の便を待つ出発客が、もう既に玄関前に列を作っていた。

 50分を過ぎてやって来たのは小型とも呼べないくらいの白い車が2台。先に待ち始めていた人たちで前の車は埋まってしまうから、私たちは後ろのもう1台に急いだ。はたして荷物と人間がどれだけ乗れるか気がかりではあったが、後ろからスーツケースをどんどん積み重ねているうちに、いきなりのどしゃ降りに変わった。前に移動すると、荷物にスペースを奪われて、生徒二人と青塚先生しか乗れてはいないのだ。そしてあと一人分の余地しか残されていなかった。

「もう1台来ないのか?」「来ない。」「まだ11人いるんだ。」「俺がまた来る。」「何分かかる?」

「片道6分だ。」

空港に着いてからのこともあるので私が乗った方がいいと言う声に促され、成田先生に10人の生徒を預けて出発することにした。

「彼(成田先生)がリーダーだからな。頼むぞ。」「分かった。」

黒人のドライバーに後を託して乗り込んだ。

 車は雨の中を走り、空港横の駐車場に止まった。積み重なったスーツケースを急いで下ろす。

「あと11人、必ず連れて来てくれ。」「分かった。」

彼の手に5ドル紙幣を握らせた。

 3人をその場に残し空港ビルに入った。UAのカウンターに向かう経路を確かめ、戻って車を待った。ロビンさんは見送る人は7時15分に空港に、とパートナーたちに伝えていたから、彼らを待たせていることも気になった。5分、10分、15分。似た大きさの白い車が見えるたびに、あれかっ?と期待するも、サイドに書かれたホテルの名前がどれも違う。あの車か?はたして、11人が降り立った。

  「ユーアーアナイスガーイ!サンキュー!」

彼と固い握手を交わした。さあ、いよいよだ。

 UAのカウンター近くでは、平日の朝にもかかわらず、ロビンさんを始め、見送りの方たちが5家族ほど待ってくれていた。シカゴ-成田-新千歳までの搭乗券を手にした後、最後の記念写真を撮り終えた。“Thank you to all !” 出発を促し、アトランタを後にした。

 

むすびに

 送別会の終わりの挨拶で、東日本大震災直後のアメリカ軍による掃海支援活動ならびに、訪問団の一人Amandaが中心になってHIES生に呼びかけてくれた被災者への募金活動に対するお礼の言葉を先ず述べさせていただいた。あの時、他国から寄せられた数々の支援の報に私たちはどれほど勇気づけられ、また心強く感じたことか。その有難みを忘れはしないだろう。そしてもう一言添えたのは、姉妹校交流を通じて私たちの間にどれほど強い絆が生まれるかを知った、ということだった。ホストの皆さんの気持ちの温かさと生徒たちの涙に、それほどの強い結びつきを見ていたからである。

 互いに訪問期間は短く、それだけにパートナー以外の生徒との親密な交流はなかなか果たせない。それでも廊下ですれ違う生徒のほとんどが、視線を合わせてかすかに頷くか、ちょっぴり微笑んでくれたりするのだ。言葉を交わさずとも、あなたが日本の姉妹校から訪れている人であることを知っているよ、とさりげなく伝えてくれているように感じるのだ。

 相互交流は5回を数え、我が校を訪れた生徒46名、訪問した生徒は52名(男10女42)にのぼる。とはいえ、交流を深く体験できたのはごく一部の生徒に過ぎず、多くの生徒にとって姉妹校の存在は身近なものとは言い難いであろう。だからこそ、この貴重な機会を手にした訪問団は、その価値ある体験を自らの言葉で語るがいい。そして、学んだことをこの先に活かすことを考えるのだ。アトランタは確かに遠い。されど私たちは互いにとても近くにいることを知っているのだから。